Quantcast
Channel: 『薔薇王』にシェイクスピアをさがして
Viewing all articles
Browse latest Browse all 50

ハンブルク・バレエ、ノイマイヤー振付『ガラスの動物園』

$
0
0

2024年11月放送。(NHKオンデマンドで2025年11月まで配信しています。)

 

www.nhk-ondemand.jp

  原作:テネシー・ウィリアムズ
  振付・舞台美術・照明・衣装:ジョン・ノイマイヤー
  音楽:チャールズ・アイヴズ、フィリップ・グラス、ネッド・ローレム ほか
<出演>
  ローラ・ウィングフィールド:アリーナ・コジョカル
  トム・ウィングフィールド(ローラの弟):アレッサンドロ・フローラ
  アマンダ・ウィングフィールド(ローラの母):パトリシア・フリッツァ
  ジム・オコナー(トムの同僚):クリストファー・エヴァンズ
  テネシーエドウィン・レヴァツォフ
  ユニコーン:ダビド・ロドリゲス ほか
収録:2024年5月28・29日 ハンブルク国立歌劇場(ドイツ)

 

『ゴースト&レディ』や『冬物語』よりかなり前に観て、途中まで感想も書いていながら、まとめきれなくて遅くなってしまいました。

 

簡単な解説付き紹介動画


www.youtube.com

 

バレエならではの美しさがありつつ、とても演劇的で繊細な作品で、胸がいっぱいになりました。ストーリー展開は比較的原作に忠実ながら『ガラスの動物園』批評・解説風でもあり、幻想文学化風でもあり。有名作品なのに私は原作の上演を観たことはなく、昔々思春期の頃読んだ時は(特に主人公トムと母親アマンダに)もっとひりひり・ぎすぎすした印象があったのですが、今作はそれよりも愛おしむような、優しい眼差しがあるように思いました。とはいえ読み返したくなって再読したら、原作にもそれはちゃんとあってそこに演出的な焦点を当てたと考えた方がよいのかもしれません。今作が作者のテネシー・ウィリアムズを登場人物にして彼の視線を入れたのもそれを強化したように私には思えます。解説動画でも言われているように、ウィリアムズの自伝的性格の強い作品なので、今作ではテネシーエドウィン・レヴァツォフ)とトム(アレッサンドロ・フローラ)は時々同じ衣装で入れ替わるように踊り、2人の重ね合わせが強調されています。

 

下にリンクしたノイマイヤーのインタビュー動画によると、当初はもっと原作に近く、語り手トムと物語内トムの2人を登場させるつもりだったのが、テネシー・ウィリアムズとトムの2人に変更したそうです。(また、元々は最終部をアグレッシブに暗さを暗示する作りにする予定だったのを本番直前に変更した話もありました。この辺は後でもう少し書きますが、予定されていた最終部になっていたら、上の印象はかなり違っていた気がします。作品の暗い面の重要性も認識しつつ、ローラや家族への追憶と慈しみの方をノイマイヤーは選択したように思いました。)

 

アリーナ・コジョカルの繊細で儚げなローラ

アリーナ・コジョカルがローラにぴったりの印象で、当て書きかもと思ったらその通りで、下動画でノイマイヤーは、ずっと『ガラスの動物園』を振り付けたい気持ちはあったもののキャストが難しく、でもコジョカルとなら作れると思ったことを語っていました。この振付以前に、ノイマイヤーは、コジョカルに振付家と組んで彼女のための作品を踊るべきとも言っていたそうです。

 

コジョカルは、実年齢的にはむしろ母親のアマンダに近いくらいで、もしかしたらアマンダ役のパトリシア・フリッツァとあまり変わらないかもと思うのですが、少女らしさを失わない人ですよね。あるいは、繊細さや儚い雰囲気は以前より増しているかもしれません……。ローラの実像的な場面では俯き加減に縮こまった感じすらあるのが、夢想場面ではふわーっと宙に舞うような対照性で、それが自然に移行するのも素晴らしかったです。

 

ガラスのユニコーンも役として登場してパ・ド・ドゥもあります。ローラのガラス細工へ情熱にも秘密めいた意味(secretive quality)があるだろうことをノイマイヤーは語っていたので、それもあってのユニコーンの擬人化なのでしょうが、その内容までは触れられていませんでした。2-30冊のテネシー・ウィリアムズの伝記や研究書を読んでの制作だそうなので、そこでの解釈にも興味がわきます。

 

もう少し今作の内容に触れるのでインタビュー動画をここで挟みます。展開が原作と大きく違う訳ではなく、バレエ作品としてのネタバレはそんなに気にしなくてよいだろうとは思いつつ……。

 

www.youtube.com

 

Image by Ri Butov from Pixabay

 

ジムが家に来てローラが緊張のあまり倒れこんでしまうシーンで、今作では、テネシー・ウィリアムズがローラを抱き上げてジムの前に行かせる作りにされていて、そこにすごく感動しました。ローラとジムが語って踊る美しい場面や、ローラに対する愛情深い台詞をウィリアムズが実姉ローズのために書いたという解釈に思えました。一方で、ローラとジムのそのロマンティックな場面では、後ろに座ったテネシーが暗い表情で2人を見つめます。ローラとジムがキスした後に、ジムがローラの想いに応えられないというように背を向けると、テネシーは悲嘆するようにうなだれてしまいます。この後の場面のトムの後悔を先取りしているのかもしれませんし、原作のト書きにあるローラの衝撃と失意をテネシーが表現しているのかもしれません。コジョカルのローラは原作のト書きより穏やかで受容的でもあるので。また、実姉ローズを置いてウィリアムズが家を出て、彼女が悲しい出来事にみまわれた後悔も重ねられているようにも思えます。

 

作者と作品世界を重ねる構図はノイマイヤーの『人魚姫』『ニジンスキー』に似ている気がしていましたが、考えてみるとノイマイヤー作品って、こういう重ね合わせで一層情感を深めるところがあるかもしれません。物語単体と思っていた『椿姫』も『夏の夜の夢』も、前者は『マノン』と、後者はヒポリタと夢の重ね合わせで感情の綾が表現されていますし、『白鳥の湖』はルートヴィヒと重ねられていたりしますもんね。

 

アマンダの夢想と愛情

今作テネシーは劇中で失踪した父親にもなります。テネシー役のレヴァツォフが単に2役というのでなく明らかにテネシーが兼ねる形になっており、戯曲では不在で台詞内にだけ登場する父親にも作者の投影があるということかもしれません。母アマンダにとって夫が素敵な人で彼に想いがあることにも焦点が当てられていた気がします。アマンダが、数多の求婚者がいたのに(←彼女の誇張・夢想も入っているかもしれませんが)彼を選んだ話も、黄水仙をもつ男性達との美しい踊りになっていて、『眠り』のローズ・アダージョを連想したほどでした。ノイマイヤーは、インタビューで、アマンダとローラの夢想の方向が違いアマンダが野心的でもあることを強調していたものの、アマンダもなかなかに夢見がちなことが私には印象的でした。この辺は、単純に、すっかり忘れていた、あるいは過去の私にそもそも読めていなかったところで、特に戯曲後半の場面に忠実ですらあるんですね。今作を観て再読すると、アマンダが『欲望という名の電車』のブランチとの類似を指摘されているのもよくわかりました。

 

ノイマイヤーのインタビューでは、アマンダがバレエでは一番難しい役だと言われていました。原作の登場人物説明にも書かれていることだと後からわかったんですが、喜劇的かつ悲劇的で、母性の最も感動的な面をもっているので、どれかに偏ってはいけないとのこと。

 

今回、私内イメージが最も刷新されたのがアマンダでした。初読時には叱責的で口やかましい印象が強くて、再読して登場人物説明に「アマンダには称賛すべき点が多々ある」「無意識のうちに残酷にふるまうこともあるが、そのほっそりしたからだにはやさしさがこもっている」と書かれていたことに驚いたくらいでした。しかも今読むとその口やかましさを“わかる〜、色々心配だよね”とか、“お嬢様だったのにシンママとして頑張っている”とか思ったりして。

 

小田島雄志先生の訳のアマンダの口調が、こう、昔の庶民的母親風なのとややきつめなのとで誤解した面もあるかもと思いました(←責任転嫁)。観てから台詞の内容に注目すると、これは翻訳で印象が変わるんじゃないかという気がして、松岡和子先生訳まで読んでしまいました。こちらはしっくりきまして、少なくともフリッツァのアマンダは松岡訳の印象です。

 

「それがこわかったんだよ、あたしには、おまえがアル中にでもなるんじゃないかって思うと! オートミールを一杯おあがり!」「からだのためによくないから。あたしたちはね、からだだけは大事にしなきゃならないんだよ。」(小田島雄志訳・新潮文庫

「あなたがお酒を飲むのを見てると怖くてたまらないの。さあシリアル食べなさい。」「体のためよ。出来るだけ体を鍛えなくちゃ。」(松岡和子訳・劇書房)

 

更に、松岡先生は、あとがきで以下のように書かれています。

ガラスの動物園』のふたりの女性を思うとき、反射的に私の頭の中に結ばれる像がある。(中略)ガラスの小動物たちを前にひっそりと坐っているローラ。その背後に立つアマンダ。(中略)ローラがガラスでできた小さな動物たちをいとおしみ大切にしているように、アマンダはそのローラをいとおしみ、大切にしている(「大切」の仕方が往々に見当はずれで、結果的にローラを傷つけてしまうのがアマンダの悲喜劇、ローラにとっては悲劇なのだけれど)。

 

トムのセクシュアリティの明示

トムが毎晩映画に出かけることがゲイクラブに通うことを隠す言い訳(+作品的にはその示唆)であることはしばしば指摘されていて、それが今作でははっきりゲイクラブのシーンとして出てきます。それに加えて、トムがジムに惹かれている描写もあります。後者については今作独特の展開かと思いましたが、トムが工場でジムとしか交友関係がなかったり、詩を書くトムをジムがシェイクスピアと呼んで温かく接してくれたこと、ハイスクール時代のジムの活躍を学年が違うトムがよく知っていることなどを、そう解釈できるのかもしれません。

 

アマンダと黄水仙をもつ男性達とのシーン以外にも、紗幕の使用などがかなり原作に忠実なので、トムのジムに対する感情も改変というより解釈なのかなと思いました。

 

終幕

終幕は原作のト書き通り、ローラがろうそくをそっと吹き消すもので、静謐でノスタルジックな雰囲気があります。最初に書いたように、もっとアグレッシブな終わり方にする予定だったそうで、「そのろうそくを吹き消してくれ、ローラ」の直前の台詞、「だっていまは、すさまじい稲妻が世界を照らしているんだ!」(小田島訳。ここは小田島訳の方が好き)という台詞は戦争や原爆の喩えでもあるとノイマイヤーは述べています。そう取ると確かに“吹き消す”の意味も、カタストロフィックに思えます。

 

また、小田島先生があとがきで書いていた自伝的話を読むと、実姉ローズもウィリアムズもかなり虐待的な環境にいたことがわかりました。ウィリアムズが家を出た後、「被害妄想から父に殺されると言い出すローズを、父は州立精神病院に入れ、脳葉切除手術(ロボトミー)を受けさせた」(新潮文庫・あとがき)とのことですが、実父はまさにアルコール依存で暴言が絶えず、ウィリアムズが過労で入院してローズが精神的に参ってしまった経緯もあるそうで、ローズの発言は妄想とだけ言えないのでは……とまで思いました。妄想だとしても環境要因は大きそうです。また、それがウィリアムズの心の傷となって、最後の台詞内の「姉さんのことが胸を離れないんだ!」「なんでもいい、姉さんのろうそくを消してくれそうなことをやってみる!」にも反映されているのでしょう。

 

今作では、ローラとジムが語り合っているシーンで、トムはテネシーのコートを着てひっそり家を出て行きます。原作でトムとアマンダがジムのことで言い争い、トムが怒って家を出る終盤の場面はテネシーがトムになっています。今作では、その言い争いの時にアマンダが破ったトムの絵を(今作ではトムは詩でなく絵を描く設定)、ローラが丁寧に並べ直しその絵に顔を輝かせます。家族の誰かの絵を懐かしんだのかもしれませんし、家を出た彼がその才能を発揮させる可能性を喜んだのかもしれません。その後にローラとガラスのユニコーン(ダビド・ロドリゲス)が踊るシーンもあります。それは、美しいガラス製品を見るたびにローラを思い出さずにいられないというトムの台詞の表現かもしれませんが、ローラのガラスの世界がネガティブなものだけでない自由な精神の世界でもあること、ローラ=ローズにトム=ウィリアムズが抱く罪責をローラは許していることの表現にも思えました。ノイマイヤーの当初の終幕の予定からすれば、美しく受け取りすぎてはいけないのかもしれませんが。

 

それでも、(おそらく多くの上演版も同様だろうと想像しつつ)コジョカルのローラのろうそくの消し方は、とても優しく慈しみを感じるものでした。

 

↓こちらにも『ガラスの動物園』の素敵な評が載っています。

balletchannel.jp

 

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 50

Latest Images

Trending Articles