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Channel: 『薔薇王』にシェイクスピアをさがして
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祝再演:井上ひさし作、高橋一生主演『天保十二年のシェイクスピア』(Blu-ray)感想

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2020年上演、藤田俊太郎演出、高橋一生主演。

 

12月9日から舞台で再演(浦井健治主演)なのに、2020年上演Blu-rayの感想でまぎらわしかったらごめんなさい(もうそんなに経つんですね)。祝再演ということで。ぼーっとしていて知らなかったんですが、今回のチケットを検索しながら“高橋一生さんの佐渡の三世次も観たかったな”とか思ったら、日生劇場のサイトで販売されていまして!

 

www.tohostage.com

(実は普通に通販もしていました……)

www.nikkansports.com

enterstage.jp

 

コロナで中断が決まった当日、無観客上演の時の録画でした。語り口がとても心地よい木場勝己さんの前口上で始まり、無観客上演のことも言及されます。そこで無人の客席が映され、それでも、ちゃんと観客が見える、また、観たことがない人にもいつか劇場でお目にかかれるよう、と言われているのも、再演が始まろうとしている今聞くと感慨深いです。

 

天保十二年のシェイクスピア』は、『天保水滸伝』の話を軸にシェイクスピア37作品を入れ込んだものとのことで、Wikiの解説に各人物がどの作品と重ねられているのかがわかりやすく書かれています。『天保水滸伝』をわかっていないせいもあるでしょうが、『リチャード3世』と言ってもよい気がしますし、当ブログなので話の重ね方が『薔薇王』っぽいとやはり思ってしまいます(テイストは相当違いますし、読み替えの方向も逆だと考えますが)。佐渡=thirdに自力で気づけなかったのが残念……。

 

天保十二年のシェイクスピア - Wikipedia

 

やはり長めになったので、今回も目次をつけました。後半は、シェイクスピアを探して(→でも探せていない)的内容です。どうぞお好きなところだけ……。

 

高橋・三世次と浦井・王次

高橋さんの佐渡の三世次(リチャード3世メイン)は、第1幕では野望の一方で虚無的な暗さがあり、それが第2幕後半では栄達を極めても埋められない渇きに気づき欲しいもののために足掻いて、その切なさがとてもよかったです。浦井健治さんのきじるしの王次は(バカっぽい軽さもありつつ)ぱーっと場が明るくなるような華があり、2人が陰と陽で対照的なのも素敵でした。再演でのキャスト変更が楽しみな一方、こんなにキャストがはまっているとすごくハードルが上がる気がして変な心配までしてしまいます。再演では大貫勇輔さんが王次。

 

高橋一生さんの佐渡の三世次は、登場の瞬間に、静かな風情なのに/だからこそ暗いオーラで冷たくすさんだ心情が伺われ、リチャード3世的な野心を語りつつどこか投げやりにも思えます。醜いはずの顔の火傷跡や瘻がアウトロー的でむしろかっこよく見える不思議。『オセロー』イアーゴー、『ジュリアス・シーザーアントニーも重ねられていて、心情は冷たいのに人に接する時には明るく茶目っ気があったり、惨めな振りもしてみせる人身掌握術。ですが『リチャード3世』のアンに該当するお光/おさちに対してだけは、彼の感情が動いているのだと思えます。原案でリチャードがアンに迫るシーンの高橋・三世次は、色気も迫力も壮絶で、一方では計算づくでありながら、もう一方ではおさちに心から受け入れてほしいのだと思え、こういうリチャード(じゃなくて三世次ですが)は本当にいいなと思いました。最後はマクベスもリチャード2世も重ねてくる戯曲の展開にも痺れます(鏡を割るエピソードが多分リチャード2世)。その重ね方にテーマ性も感じつつ、現段階では考えがうまくまとまらないので、もし後日書けたら書きます。「絶望しかないのか。おれを愛するものは一人もいない。」と言うリチャード的にも感じます。高橋・三世次が求めたものはおさち(からの受容)だと思え、期待を裏切られる彼が哀れです。

 

↓浦井さんが高橋さんの三世次解釈を語っている記事

crea.bunshun.jp

 

きじるしの王次は、話の展開と台詞はハムレットメインながら、人物的には『ヘンリー4世』のハル王子+ロミオの感じ。浦井さんの王次はチャラくやんちゃな一方、任侠物のいなせな雰囲気もあって、これはモテそう、周囲が甘やかしそうという説得力。ハムレットの狂気の振りはあまり感じないですかね。『ヘンリー4世』のことはwikiには書かれていなくて、東宝演劇部@toho_stageがシェイクスピア作品との重なりを教えてくれたtweetの中にありました。それを読んで“なるほどキャラ的にはハムレットというよりハル王子!”と思いました(浦井さんが以前演じたハルは観ていないのですが)。ロミオが重なる時のバカップルぶりもすごくはまっています。

 

木場・隊長+井上戯曲のよさ、唯月・お光/おさち

木場勝己さん演じる隊長(語り手)は、『ヘンリー5世』での説明役ということなのですね。wikiを見てやっと、あ〜そうか!と思いました(←ハル王子もこちらも、またこの後も書くように、ブログ名にもかかわらずシェイクスピアを探せていません……)。話があちこちする面もあるこの芝居を、木場さんの隊長がまとめる吸引力もあると思いました。ほぼ出ずっぱりで物語の進行を見つめていて、その視線があることが場面の情感を高めていたり、引き締めていたりもしてよいのです。出ずっぱりにしたのは木場さんの提案だったという話を、以前どこかで読んだ気がします。

 

語り手に関しては(『ヘンリー5世』の説明役が私はあまり好きでないこともあって)個人的には『天保』の方が断然よいと思いました。『ヘンリー5世』の方はナレーションが舞台の流れを途切れさせる気もしますし、内容はプロパガンダ的に思えるほど賛美的で、なので、むしろ敢えてそれに距離を取らせようと流れを悪くしているのでは、と密かに疑ってしまうくらいです。木場さんが上手いのかもしれないものの、『天保』の語りは、逆に作品に入り込ませてくれる感じがします。加えて、『天保』の方は、『ヘンリー5世』の平民の兵士達と重ねるように、隊長が抱え百姓役という役の立場性があるのも意義深いと思い、更に彼が三世次と同じ抱え百姓であることが、最後の展開とも関わることになっています。

 

天保水滸伝』が講談や歌舞伎からということもあるのか、井上ひさし作品だからなのか、台詞のキレというのか、語りの生きのよさがありますね。これは隊長に限らない話でも、最初の語りでそこに注意を向けさせてくれるのもありがたかったです。シェイクスピアの翻訳は翻訳で素敵で、格調高さや堅苦しい雰囲気(すみません)もまた魅力ではありつつ、こちらは和物的なノリのよさもあります。宮川彬良さんの音楽がまたそこを生かして相乗効果になっている気がします。

 

↓宮川さんが井上戯曲の音の素晴らしさを語っている対談記事。

natalie.mu

 

唯月ふうかさんは、お光/おさちという性格の異なる双子をどちらも魅力的に見せてくれました。しかもお光は冒頭のおとなしい『リア王コーディーリアから、剣術修行を経て鉄火肌にキャラ変(これも戦争を仕掛けたコーディーリアの解釈は入っていそう)。ジュリエットが重なって王次に恋を語る時より、男装風お光と王次の視線のやりとりの方が色っぽいかな。東宝演劇部tweetによるとこのお光には『じゃじゃ馬ならし』も入っているとのこと。そう書かれていると、お光=キャタリーナ、おさち=ビアンカの対照もありそうと想像します。この2人を早変わりでも演じています。おさちは昔風の貞淑の価値観が体現され、それでいてセクシュアルな視線を集めるような歌もあって(wiki等の記載にはないものの『オセロー』デズデモーナが入っている気もします)難しそうな役ですね。『リチャード3世』のアンに当たるのがおさちですが(三世次が焦がれる点や、「ひとりでふたり、ふたりでひとりの女」の台詞からはお光もそうなのでしょう)、終盤のおさちは原案アンとは違う印象で、なんだか井上ひさし作『雨』のおたかが思い出されました。三世次とおさちの関係も、一寸『雨』の徳とおたかが連想されて、そうしたらこの2作は執筆年が近かったんですね。全然違うよ、読めていないよとも言われるかもなと思いつつ……。

 

シームレスな重なり:あらすじとシェイクスピア作品

Wiki掲載のシェイクスピア作品については(私は『ヘンリー5世』には気づかなかったものの)割合わかりやすく、重ね方・混ぜられ方もシームレスな気がしました。その辺も『薔薇王』っぽい。既に上でもある程度書いていますが、Wikiにはなくて東宝演劇部tweetで紹介されたものは下線、私が想像したものは太字で作品の使われ方について、以下あらすじを追う形で書きます。

 

冒頭は『リア王』で、この辺はwikiの人物紹介にある通り。姉娘2人は『リア王』ではイケメンのエドマンドに熱を上げて争いますが、今作では父が治めていた清滝の地盤をめぐるやくざの家同士の勢力争いになっています。エドマンド的な不倫相手は、長女お文の方では夫の弟・蝮の九郎治(くろうじ=クローディアス)で、こちらは九郎治による兄殺しが『ハムレット』に。次女お里の不倫相手は一家の用心棒・尾瀬の幕兵衛(せおの・まくべえ=マクベス+オセロー)で、幕兵衛が主人(お里の夫)を殺害する『マクベス』に。更に2つの家(紋太一家、花平一家)の対立なので、『ロミオとジュリエット』の伏線にもなります。

 

この2つの家の対立や一家内の不穏を利用してのし上がろうとするのが主人公・三世次です。今作では三世次が、お文の息子のきじるしの王次(=ハムレット)に亡霊を見せ、王次に九郎治の仇討ちを唆します。王次は九郎治を狙う一方、手下にけしかけられれば対立するお文一家への抗争にも加わり(『ヘンリー4世』)、そんななかで剣術修行から戻ってお里の家にいたお光と恋仲にもなります(ロミジュリ)。王次には許嫁のお冬=オフィーリアもいるのに! でも一応恋の魔法をかけられての展開にもなっています(『夏の夜の夢』。「浮気草を絞る」とあるのにこれも気づきませんでした。そうするとお冬から心変わりしてしまうのも『夏夢』なのかも。)。

 

多分wikiの説明はちょうど第1幕のあらすじぐらいで、第2幕での展開のネタバレまでは控えているようです。ここからその先のネタバレも含めて書きますので、その分は以下の画像をクリックいただけば飛ばせます。

 

UnsplashBangsal Nam

 

新たに清滝に着任した代官の妻おさとは、お光の生き別れの双子でした。お光と王次がいい仲であるのを目撃した代官は妻の不倫と誤解して怒り(『間違いの喜劇』)、代官がお光に気があると勘違いしベッドトリックを提案した九郎治を斬り捨てます。お光を庇って逃した王次も、代官に斬られてしまいます。ベッドトリックの話が『終わりよければすべてよし』か『尺には尺を』? その前には、三世次が場所を取り違えてお文を殺しています(これも“間違い”という解釈?)。この騒動直後にお光とおさち2人が初めて出会って互いを確認し、代官の誤解は解けますが(『間違いの喜劇』十二夜)、紋太一家は終わってしまいます(王次、九郎治、お文全員が亡くなるのが『ハムレット』)。

 

一方の花平一家では、一家の頭になった幕兵衛に、弟分の利根の河岸安(かしやす=キャシオー)と妻お里が不倫しているという嘘を三世次が吹き込み、それを信じた幕兵衛はお里を殺して自害します(『オセロー』)。その後、飯岡助五郎や笹川繁蔵ら親分達の話し合いで、清滝宿の跡目は義兄弟順で河岸安だと決まると、三世次は、「河岸安の兄いは、誠に非の打ち所のないお人柄」なので自分も嬉しいと言いながら、河岸安がお里の部屋に寝泊まりまでして一家を助けていたと不倫を仄めかす話をして親分達に河岸安への疑惑を抱かせます。結果、河岸安は殺され、三世次が後釜におさまります(『ジュリアス・シーザー』)。

 

その栄達でも三世次は満たされず、お光/おさとへの想いは募っていきます。第1幕で、三世次は老婆(=魔女)に“老中まで出世する、ただし「ふたりでひとりの女」と深い仲になったら身の破滅”と予言されます(『マクベス』)。そんな女はありえないと三世次は取り合わず、一方、お光を密かに慕っていましたが、お光/おさとはまさに「ふたりでひとりの女」でした。再び老婆が現れ「自分で自分を殺さない限り」うまく行くかもしれないと言い、これも『マクベス』の危うい予言なのですが、自分で自分を殺すことはないと三世次は賭けに出ます。お光の床にいきなり忍んでいって匕首で刺されて拒絶され(お光にとっても客観的にもレイプですが、多分三世次にその認識はなく、醜さで拒絶されたと思っている)、お光を殺してしまいます。“目を縫いつけてやる”という台詞があるので、もしかしたら『タイタス・アンドロニカス』? 忍び込む話は『シンベリン』? (この場面はむしろ『薔薇王』7巻最後のリチャード→ヘンリー、10巻のバッキンガムの場面っぽいなとも思いました。もちろん『薔薇王』の方が後ですが。)

 

お光殺害容疑で捕まった三世次は代官の配下を金で誘い(金で靡かせるのはアテネのタイモン』?『リチャード3世』で殺し屋を雇う話にもなっているでしょう)、自分を捉えた代官を逆に罠を仕掛けて殺し、その直後におさちに求愛します(この辺は『リチャード3世』の、兄の暗殺とアンへの求愛です)。ここからの展開はほぼ『リチャード3世』で、そこに『マクベス』『リチャード2世』の破滅話が乗ってきます。馬を求める台詞は、今作では逃避願望・死への願望が強い内容に改変されています。「馬だ! 馬を持ってこい! ここから、いや、この世から抜け出すには馬が、それも羽根の生えた馬が要るんだ!

 

でも、上記でもまだ作品数そんなに行っていません。Wiki小田島雄志井上ひさしの劇ことば』にシェイクスピア作品からの台詞が解説されてあるとあったので、じゃあそれを読んだらわかるかなと思ったのですが……。

 

井上ひさしの劇ことば』には12作品しか解説がなかった……

残念ながら上で挙げた作品以上の情報はなく、しかも今作については「これだけ入れば当然テーマは散漫になります。劇ことばとしてはシェイクスピアの影響があって面白いのですが、出来としては壮烈な失敗作です。」とまで書かれていました。え……。更に、引用された台詞が『シンベリン』からとされているが、そうではなく『ペリクリーズ』というツッコミもされていました。後から「それはことばが依然として自由に飛び回りながら、テーマが散漫になったことを言いたかったからです。(中略)そのあと、テーマとことばの間で手探りをし始めたような気がするのです。」と、井上作品が更に発展したことの軌跡として位置づけられていますし、井上ひさしシェイクスピアに共通する演劇とことばのあり方が論じられ、その点でフォローされてはいるのですが。でも小田島先生は、今作自体はあまり評価されていないようです。(シェイクスピアと比較した井上ひさし論としての読み応えはあります。)

 

上に書いたように、私としては台詞も生きのよさを感じ、『リチャード3世』読み替えとしても面白く、テーマも終盤で収斂している気がするんですが……。

 

東宝演劇部が情報更新中! きっと37作品アップされます

上でも書いた東宝演劇部さんが以下のような感じで、現在進行形で作品紹介をアップしてくれています。ありがとうございます! 

 

ただ、これで新たにわかったものも多い一方、やや腑に落ちないものもあったんですよね。上で書いていない佐吉・浮舟太夫・佐吉の母おこま婆については納得するものが多かったです。ということで、佐吉・太夫・おこま婆関連のものから載せます。(とはいえ、『天保』でのこの3人の位置づけは私にはよくわかっていません。佐吉と太夫は主筋にはほとんど絡んできませんし。)佐吉と浮舟太夫について、ネタバレ気味になるのをご容赦下さい。

 

恋の骨折り損
佐吉と浮舟太夫が若者の恋とのことです。→なるほど太夫の年期明けまで約束して待つ佐吉というわけですね! 佐吉と太夫、後半はロミジュリですが、佐吉が約束を待つ話って何?佐吉のモデル誰?って思っていました。

 

『から騒ぎ』

おこま婆と浮舟の会話。→死んだという嘘をつくプロットのことでしょう。これも、なるほどと思いました。

 

アントニークレオパトラ
佐吉と浮舟太夫。これも納得と言えば納得。てっきりロミジュリとばかり思っていたけれど、死んだという話が間違って伝わるのはアンクレも同様ですね。佐吉の台詞はジュリエットからですよね。考えてみると浮舟太夫の亡くなり方がクレオパトラに近い?

 

コリオレイナス
佐吉と母のおこま婆がコリオレイナスと母親で、息子を想う母の行動が逆に息子に死を招く結果となる皮肉だそうです。文脈が違いすぎるのは気になりますし、佐吉と母の関係は、ロミジュリのジュリエットとばあやに近いような気もします。『コリオレイナス』は飢饉と代官への直訴の話というのはどうでしょう?と思ったり。

 

ヴェローナの二紳士』(東宝演劇部の紹介では佐吉・浮舟太夫ではないんですが)

「プロテュースは親友も恋人も裏切り、フィアンセのいるシルヴィアとヴァレンタインが駆け落ちすると公爵に告げ口」「プロテュースの“力”を持ってシルヴィアをものにしようとする態度」がお光に対する三世次だそうです。う〜ん、三世次がお光に強引に言い寄る文脈が違う気がして。これは、旅で危険な目に遭わないように浮舟太夫がみすぼらしい格好に身を窶す(『ヴェローナ』の方は男装)エピソードの方かと思っていました。

 

以下は、佐吉・浮舟太夫以外
十二夜
戯曲でも隊長が最後に“未紹介の作品があって”と『十二夜』に言及しており、tweetでもそこだとされていますが、お光とおさちが再開した時に三世次が語る台詞は『十二夜』からのはず。「1つの顔、1つの声、1つの服、そして2つのからだ、自然が作りなした鏡だ、ありえないものがある!」元台詞は、問題が解決され喜びにつながるものですが、『天保』の方はそれが三世次にとって呪いのようになるところがすごいです。

 

冬物語

お光が「捨て子」である設定や、木場勝己扮する百姓隊長が時空をコントロールする場面とのことです。これはある程度納得で、捨て子設定ってここからかと思いました(『間違いの喜劇』での親と生き別れた話とだけ思っていました)。時空コントロールも言われてみればその通りかも。おさちがひたすら貞淑を歌っていたのが、デズデモーナっぽい気もしましたが(小町と言われながらおさちは年の離れた代官と結婚していますし)、その時空コントロールの場なので、自身の貞節を弁明するハーマイオニが入っているかもしれませんね。その後おさちは夫から疑われたりもしています。

 

テンペスト
三世次とお光の台詞にあるそうです。台詞はほとんど覚えていなくて、すみません。台詞引用だと私は降参です。上で『冬物語』とされている、おさちを登場させる魔法の方かなと思っていました(隊長=プロスペロー)。

 

『終わりよければすべてよし』

きじるしの王次とお光が、バートラムとヘレナと同様、身分違いの恋という説明でした。ただ、確かにお光は捨て子ですが、身分違いというより2人は敵対する家同士、血の繋がりはなくても甥と叔母の許されない関係に思えます。『終わりよければ』は、九郎治が提案したベッドトリック(提案だけですが)の方かなという気がします。ベッドトリックは『尺には尺を』にもあるので私のこの想定も弱いんですが。

 

『尺には尺を』
イザベラと幕兵衞の台詞が対応しているとのことですが、どこの台詞かまでは書かれていません。やはりベッドトリックか、女郎屋とかかっているかなーと思っていました。

 

『シンベリン』
妻に裏切られ女性を呪ってしまうポステュマスの姿がきじるしの王次とのこと。うーん、ハムレットだけで十二分な気も。(実は間違いと小田島先生が指摘した)台詞引用で言及されているなら、その台詞のみの可能性も。これもどちらかというと三世次が寝室に忍び込んじゃうプロットかもと思いました。

 

(※『リチャード3世』『十二夜』の「」内台詞は小田島雄志訳・白水社版から引用しました。)

 


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